初代 新城清良先生
2代目 新城清優先生
3代目 新城清秀先生

三代で武の伝統を築き上げた新城家

 新城家は、三代にして武の道統を築き上げた名門である。
初代新城清良は、昭和九年、和歌山市で上地完文門下に入り、二代目、新城清優も、昭和十四年同じく上地完文門下に入った人である。このようにして、新城父子は、上地完文門下でたえず師の身近かに身をおき、師完文から、心技両面にわたって多大の薫陶をうけた。新城家に伝わる武教主義的な家風は、その武門の格式となるものである。三代目、新城清秀は、昭和三十五年、師であり実父である新城清優より空手の師事を受けて現在に至っている。その武門の格式は、道統三代目によって確立されたといえよう。

 新城清良は、原野を拓き、二代目清優は、礎を築き、それに磨きをかけたのが、三代目清秀である。このようにして、親子孫三代にわたって、上地流空手道を家伝の武芸として守ってきた、新城清良、清優、清秀の三氏は、同じ道統に生きる武人であっても、武道に対する心構えとかその格式とかには自ずから異なるものがあった。初代清良は、義侠的に師完文より技法を継ぎ、二代目清優は、初代のもとに野性的剛毅さを加え、三代目清秀は父から厳しく仕込まれた技法に知性を投与し、それを洗練し、心法の領域まで高めた人である。このようにして新城家に伝わる上地流空手道と云う武門の技法と心技は、歴史的時間上において連繋作用をおこし、現在のように心技両面にわたって精緻を極めるようになった。

出典:精説沖縄空手道その歴史と技法

拳優会回想録 - 新城清秀 –

 昭和初期伊江島出身の祖父清良は、関西方面の紡績工場の仕事を島の若い人へ仲介する為和歌山に住んでいた。その頃、日の丸産業(株)社宅道場で上地完文先生が空手指導をしておられ、その門下となる。父、清優は昭和四年和歌山にて出生。10歳の時、同じく門下となる。父は和歌山工業卒業と同時に予科練飛行隊へ入隊するも、すぐに終戦を迎える。まもなく帰郷(伊江島へ)、そこで母ヨシと結婚。

昭和26年、私は伊江島で生まれた。そこでの生活はほんの4年程で殆ど気憶はないが、聞くところによると、母親が畑仕事中、ひとり遊びをし、山林で行方不明となり、島中の人が大さわぎで探し出したそうだ。那覇市安里に移り住んでからの気憶は鮮明である。父は「安里研究所」を設立、ゼロからのスタートだ。その後男三人、女三人の弟妹が出来、楽しい事も多かったが、生活は決して楽ではなかったと思う。

知人の紹介で嘉手納町ロータリー内へ引越したのは、私が小学校3年の2学期からだ。宮前小学校(現嘉手納小)へ編入するもロータリーは校区外との事で1ヶ月後、屋良小学校へ再編入となる。父は借金をし、トタン屋根の住宅兼道場を設けた。基地と隣り合わせの環境の下、生活の為危険を承知の上で米兵の門下生を多く取った。当時ベトナム戦争の勃発で米兵は精神的に荒れており、礼節もわきまえない乱暴者が多かった。地元の門下生も負けず劣らず血気盛んな者ばかり、地上戦を強いられたウチナーンチュ故の反発心も手伝ってか、道場での稽古は毎日が修羅場と化した。窓ガラス、鏡は割られ、床は落ち、玄関戸は飛んで行くありさま!人材育成どころではなくに身体を張っての指導の日々であった。そのような厳しい条件の中、必死で心技共に育てあげた米兵達が兵役を終え、本国で次々と支部道場を開設し、(アメリカを中心に南米・ヨーロッパ・インド等)拳優会の継承、発展に貢献してくれており、現在に至る。

父は門下生以上に私には厳しく、ひとりで道場の掃除をするのは当然の事、稽古を休むものなら、食事もさせてもらえなかった。空手を通しての父は本当に厳格そのものであったが、普段、子どもに対する愛情は人一倍強く優しい父であった。そんな父を52才という若さで亡くし、三代目として微力ながらも指導に当たっているが、空手道の奥の深さに未だに修業する身である。門下生の手助け全てに、そして支えてくれる家族に感謝の念を忘れず、道統の継承責任者として、自らを律し尚一層の努力を積んで行きたいものである。

2020年で拳優会は創立60周年を迎え、ある種の感慨はあるもののそれに満足することなく尚一層沖縄の伝統、上地流空手道の原形を守るべき使命も責務としてある。だが、時代時代をたくましく成長した若い力も無視する事は出来ない。伝統を母体とし若い芽を育てていく事も将来の展望に欠く事の出来ない重要課題である。伝統と現実の間で繰り返される歴史に挑戦し、門弟、仲間、知人、友人、家族共々に空手の旅を楽しんで歩んでいきたい。

出典:拳優会60周年記念大会プログラム