上地流紹介

周子和
周子和 先生
上地完文
上地完文 先生
上地完英
上地完英 先生

温故知新 パンガーヌーン流から上地流空手道へ

 上地流空手道の初源は中国福健省を中心として発達した南派少林拳の門派をくむパンガ井ヌーン流と呼ばれる拳法だと伝えられる。中国伝来の「三戦」「十三」「三十六」の技法動作から中国拳法に存続する龍荘拳・虎荘拳・鶴荘拳と見て龍虎鶴と称している。上地流空手道開祖上地完文は二十歳の時、中国福健省福州市へ渡り、南派少林拳の重鎮周子和の門下となる。

拳術修業・中国語学・漢方薬処方等。実に身を徹して十三年間厳しい修業を積む。周子和より拳術免許皆伝・道場開設許可、日本人として初めて福州市南靖で三年間道場開設し、のち帰郷する。帰郷後十七年間は一身上の都合で拳術修業の一般公開はなく、門外不出の閉鎖性の中で絶える事のない自己探究の確立を目指し新しい道を模索していた。

大正十五年(一九二六)和歌山市手平町でパンガ井ヌーン流空手術は開設された。指導理念は伝統性を保持し少数精鋭の厳選主義で入門者は保証人を立てて、厳しい稽古風景は他人に見せない秘密主義、周子和直伝の「三戦」「十三」「三十六」「小手鍛え」「掛合」(自由攻防)等が中心、修業者はパンツ一枚、又は短いズボンをはき、上半身裸で行うのが日課、個人指導が主体で実際の手解きを受けるのは日課の中でわずかな時間だった。門弟が力をつけ大阪・兵庫の進出に伴い組織強化を図る上で、修武會の結成、同時に流派名も上地流へと改名した。戦前、戦中を和歌山で過ごした上地完文も戦後昭和二十一年帰郷、二年後昭和二十三年に逝去した。

 上地流の高弟は帰郷後、二世上地完英を中心に名護、普天間、那覇で戦後復興と並行し道場開設をはじめた。
二世上地完英は伝統性を保持しつつも時代性を考慮し、新たな型を考案し、修武會の再スタートを強化した。従来の自由攻防も試合規則、競技規程が整備され若い者に競技の開放を見出した。閉鎖性からの脱皮で対外交流を計り、技術力の向上と空手界の普及へと走り出すのだ戦後の空手界でこれ程急速な発展を遂げた流派は上地流以外ないと云っても過言ではない。上地流空手道は歴史的には浅いが、首里手、那覇手、泊手の先輩流派に一歩でも近づく為必死にかけ出した。
 四世代目を迎えた歴史は、偉大なる先人の血と汗と涙の結晶である。上地流空手道は尚一層強い鼓動を打ちつづけている。

  
       

上地流の特徴と理念

肉体を極限まで戦え上げ、鎧を着込んだかのような体と刃物のような拳足を作り上 げる。多くの技法を閉手(拳)ではなく開(掌)で行うため、その鍛錬は、本来ならば脆弱で鍛錬が困難な手足の指先にまで及ぶ。過酷とも言える鍛錬を経た貫手と足先は鉄線が通ったかのように強靭に鍛え上げられ、繰り出される貫手や足先蹴りは、あたかも鋭利な槍の如くである。

清代末期の福建に渡り、彼の地で武術を学んだ上地完文によって創始された上地流では、生身に身体を武器と化す、凄まじいまでの肉体が大きな特徴の一つとなっている。

しかし、もちろん硬さにばかり偏っているものではない。福建で武術を修め、沖縄に帰郷した完文は、当初自らが福建で術家として暮らしていたことを頑なに秘していたという。その後、和歌山に移住し、十数年の沈黙を破って道場を開き弟子を取り始めた完文は、自らの道場に「パンガヰヌーン流空手術研究所」の看板を掲げた。パ ンガヰヌーン(半硬軟)とは即ち硬軟自在、もしくは武術用語に言う剛柔相済である。

ここで言う硬軟とは、例えば身心に於ける硬軟ならば、まず筋肉を引き締めた状態が硬で、緩めた状態が軟となる。呼吸法ならば息を止めた状態が硬、呼吸している状態 が軟であり、心法に於いては精神が高揚している状態が硬、平静な状態が軟である。 一方動作や技法の中の硬軟に目を向けると、まず直線運動が硬、曲線運動が軟となり、具体的な技法となると、突き蹴りなど強大な威力を相手に打ち込む打撃系の技が硬、投げ技や逆手技など相手の力を巧みに利用する技法が軟に属することになる。

大切なのは、硬は硬一色ではなく、必ずそこには軟が内包されており、軟には必ず 硬が内包されているということである。硬軟のバランスを巧みに変化させ、自在に使いこなす硬軟自在こそが、上地流の本分となっている。

そしてもう一つ、硬軟自在とともに上地流を支える理念となっているのが眼精手捷である。眼精とは相手の動きを確実に捉える目、手捷とは相手に対して素早く適切に対処し得る技術であり、相手の動きに対して迅速かつ精確に対処し得る術の重要性を説いている。

「身心の硬軟を状況に応じて臨機応変に使いこなすことができる硬軟自在、眼精手捷の境地こそが、上地流の古名にある「パンガヰヌーン」に込められた理念なのである。

 
 

上地流の体系化

上地流では、型の体得を稽古の中心に据えている。完文が福建から持ち帰った古伝の型は「三戦」「十三」「三十六 (※注1)」の3つであり、この3つの型が上地流の型稽古の主軸となっている。その後、本格的な指導が始まり、流派として体系化が進められていく過程で、新たに5つの型が創出されていった。 完文の長男で上地流宗家二代目である完英によって「完子和(※注2)」「十六」「完戦」と いう3つの型が、完英の高弟として知られ完文にも学んだ糸数盛喜によって「完周社(※注3)」が、さらに完文の高弟の上原三郎によって「十戦」が、それぞれ上地流の体系を補完する形で創出されていったのである。加えて稽古をより効率的に進めるために、体を調整するための準備運動や、型から基本的な技法を抽出して反復練習し、基本技術を高めて型の修得を助ける補助運動、型の意味を知り、より深く理解するための分解などが考案されていった。

また、こうした技法を遺憾なく使いこなすためには、鍛錬が必要不可欠である。鍛え 上げられた拳足は、攻撃はもちろんのこと、受け技においても単に受けるのではなく、 鍛え上げた手足で相手の突き蹴りを弾き上げ、叩き落として痛烈なダメージを与え、相手の闘争心を挫いてしまうことを本旨としている。このような戦闘スタイルを実現させるために、上地流では肉体そのものを武器と化してしまうような鍛錬が行われている。

一方、型稽古や、肉体を武器化する鍛錬は上地流の中核となる重要な稽古だが、それだけで武術として機能させることは難しい。そこで上地流では、沖縄空手としては早い時期から自由組手が取り入れられている。型と自由組手は相互補完的な関係にあり、自由組手を行うことによって、一人稽古では身につけることができない対人感覚や恐怖心の克服などといった、武術に必要不可欠な要素を訓練する。

指導の過程で体系化され、型、鍛錬、組手という三本柱に支えられた上地流は、これを興した上地完文の時代から変わらぬ武術性を保持しつつ、現在に伝えられている のである。

 

※注1「サンダイル」などと呼ばれることもある。

※注2 創出された当初、この型は完文とシュウサブの名を合わせて「カンサブ」と命名されたが、1970年代にシュウサブ が周子和と特定されたことから「完子和」と改称された。

※注3 この型は創出当初「第二セーサン(十三)」と命名されたが、「完子和」と同じく1970年代に「完周」と改称された。

出典:沖縄県教育委員会空手道・古武道基本調査報告書
出典:沖縄空手流派研究事業 上地流解説書